昭和42年10月25日 朝の御理解

                           

 信心は、なぜ、改まれ、研け、限りなく美しゅうなれという事を言うかと。なぜ、研かなければいけんのかと。なぜ、いうなら、立派な、良い美しい心にならなければならないかという事を、皆さんは、知ってお出ででしょうか。それは、自分の、心の中にござる神様。わが心なる神。その心の中にござる神様が、我情我欲があったり、いわゆる、根性が、悪い根性であったりしたんではです。神様の働きというものをなくしてしまうのです。神様の働きというものを、いわば、鈍に、鈍らせてしまう訳です。心の神様が、いわゆる、曇ってしまいなさる訳です。ですから、自分の心の中の神様を、いよいよ、現わして行く。自分の心の中の神様を、いよいよ、いわゆる、立派な神様を現わしていくために、研かなければならんのです。改まらなければいけんのです。限りなく、自分で自分の心が、拝まれるようになる稽古をするのです。でないとですね。私どもが、如何に神様にお願いを致しましてもです。神様と通わない。私どもが、天地金の神様と、こう申し上げる。天地の親神様の心に通うて行かないのだ。
そこで、教祖の神様は、実意丁寧神信心と、こう仰せられます様に。心が研かれて参りますと、心が美しゅうなって参りますと。いよいよ、自分自身が深められて、自分自身が分かって参りますと、自分の汚さが分かってくる。その汚さに取り組んで、そこんところを綺麗にしよう。そこんところを美しゅうしようという精進が、信心でいう修行なんです。そういう心で、神様におすがりをする。お願をするでなからなければですね。良く、申しますよね。あんな奴が、幾ら、神様に、逆さんぼうったって、おかげ頂く筈はなか、といった様な事を申しますね。あんな奴と言われたり、思われたりするような事であったはならん。あの人は、なるほど信心しなさるから。なるほど美しい心の人であるという、そういう美しい心、素直な心というような心が、心の中に頂けて参りますとですね。実意丁寧神信心にならなければおられなくなってくるのです。自分の心の、いわば、神様が、鈍ってござるから、平気で嘘を言う。自分の心の神様が、汚れに隠れてござるから、平気で、実意ではない、横着な、わがままな事になってくるのです。そこんところを、教祖の神様は、実意丁寧神信心と仰るが、その実意丁寧神信心というのが、研かれなければ、改まれなければ、本気で、限りなく美しゅうならせて頂こうと、自分の心の中に、本気で思わせて頂くようなおかげを頂かなければです。実意丁寧は出来てこんのです。だからというて、頭ばっかり下げるのが実意丁寧じゃない。口だけは、いかにも、親切に、やさしゅういう事だけが、実意丁寧じゃない。自分の心の中が、いわゆる、わが心なる神がです。本当に、神としての働きというか。そういう、発揮する、その神が発揮するものは、実意丁寧神信心なんです。そういう、実意丁寧神信心、実意丁寧をもって、いわゆる、大いなる神、偉大なる神、天地を支配したもう神。世界中の氏子に、おかげをやってある神。そういう神様に、通うて行くためには、どうしても、私どもが、実意丁寧神信心にならなければいけん。実意丁寧神信心になるためには、私どもの心の中から、横着をとり、わがままをとりと言うただけじゃいかん。本気で改まらなければ、美しゅうならなければ、そのわがままも取れてこない。ただ、押さえとるだけじゃ詰まらん。根本的にです。どんなに考えても、わがままは出来ない。どんなに考えても、横着は出来ない。自分自身が分かれば分かるほど。そういう心でですね、私は、いうたり、行うたりする事が、実意丁寧に言うたり行うたりすることであると私は思う・そういう心にならなければ大いなる神に通じない。
 天地金乃神に、もう、本当言うたらですね、もうこの、天地ほど、実意丁寧なものはないのですよ。もう天地ほど、一分一厘の間違いのない実意を現わしておられる方は私は無いと思う。もう今日は、よかよか、ちっとばっかり、遅れちから、いわば、開けさせようと思う。今日は、ちょっと忙しかったから、日の暮るるとが、ちっとばっかり、遅うなそう。といった様な事は、もう、それこそ、これから先もないのです。一分一厘の狂いもなく、おかげを下さっておる。今日は、ちっとばっかり、海の水を多しようと。例えば、それこそ、一分一厘でもです。あの、海の水が狂うたら、いわば、ほんの一分一厘であってもですね。あの、富士山の上まで、海の水が来るという事ですよ。一分一厘、例えば、ほんなら、星と星とが衝突するとですね、もう大変な事になってくるそうです。いわゆる、あの、天地の運行と申しますかね。私どもが、夜空に仰ぐところの、星の一つ一つの中にでもです。もう、それこそ、整然とした位置があって、それを、ちょっとでも狂わせなさったら、もう、天地は潰れるような事になってくるのです。というほどに、天地の親神様という方は、実意の、もう実意の権化である。実意の塊なのだ。小天地と言われる私達がです。もう、それは、これが実意である、これが真心であるというてもです。私どもの、実意丁寧というのは、たかが知れておるけれども。私どもの心が、段々、美しゅうなり、改まらせて頂き、自分自身が、本当に分からせて頂くようになるとです。実意丁寧、しかも、神信心。実意丁寧をもって、神様にすがらなければおられんのである。その、実意丁寧をです。外して神様にすがったところで、ただ、神信心だけしたんではです。その天地の働きに繋がる事が出来んのです。神様の目からご覧になりゃ、もう、不実意な事ばっかりでございましょう。けれども、私どもが、本気で実意にならせて頂こう、本気で実意にならせて頂こうと。間違いのない私にならせて頂こうとする願い。それでいても、ほんなら、一日なら一日というものを、振り返ってみる時にです。はぁ、相すまない一日であったと思わせて頂くところから、謙虚な謙虚なお詫びの心が生まれてくる。神様、今日も、お粗末な一日でございましたと。そういう謙虚な、そこに私は、いわば、実意丁寧ではなくても、実意丁寧として、神様は、それを受けて下さる。いわゆる、天地の親神様と私どもの願いと、神様との働きとが、そこに一つになる。それを、私どもは、幸せと言うたり、おかげと言うたり、有難いと言うたりしておるのですよ。
 昔の、まぁだ、軍国華やかな時分。星が一つでも大きければ、もうその人は、神様の様。例えば、上等兵にでもなると、まぁ、新兵さんから見れば、神様のようなもの。また、神様のように扱わなかったら大変だった。私どもが、引き揚げて帰って参りまして、ヤミの商売をしておりました。闇商売という。その時分、ご法度でございました、例えば、反物類、衣類なんかを商っておりました。ですから、その時の経済ですかね。警察官の目を、まぁくぐって商いをするのでございます。ですからもう、本当に、経済の刑事の方達なんかは、場合によっては、鬼のように怖い。場合によっては、神様のように大事にしなければ出来なかった。大事にすると、大目に見て貰う事が出来た。現在では、税務署なんかがですね。税務吏員に睨まれたが最後、本当に、そのために、いわば、自殺さえはかる人がある。場合によっちゃ、犬のように見られ場合によっちゃ、神様の様にされなければ出来ない。その時その時の,時勢というか。というて、その人が、神様の様にされるから、神様のように偉いかと言えば、決してそうじゃない。その警察官が、本当に、神様の様に偉いかというと、決してそうじゃない。その、ほんなら、一つでも星の多い、例えば、兵隊がです。新兵から見てです、本当に、神様のように扱いよるけれども、神様の様に偉いかというと、決して、そうじゃない。ただ、そん時そん時の時勢が、そうさせる。そうさせたのである。それを、自分が神様のように思うたり、自分が偉いように思うたり。それが、何とはなしに、身について、頭の高い、いわゆる、頭の高い。実意丁寧とは、全然、反対な態度を見とるだけでも、むっ気が来るような。これは、必ず、軍隊とか、警察官とか、税務吏員とかという、限った事ではございません。これは、私どもでもそうです。みんなが、親先生親先生と、ちゃんと、ほんなごて、親先生になってしもうて、神様の様に扱かわれりゃ、もう自分が、神様になったごたる気持ち。見下げて、人にものを言うような事になったらです。もう、実意丁寧ではなくなるのですよ。本当に、ですから、私どもが思わせて貰うのに、もうここの中では、私が、一番詰まらんのだと、まぁ、こう思うて間違いないのです。
 私どもは、ここで、お月次祭ならお月次祭で、ここ一杯集まってあるご信者さんに、お話をさせて貰う。それは、取次者として、先生としての立場上、私は、お説教台の前に立って、お話をする訳でございますけれども。絶えず、この隅から隅までに、こうやって、おられる信者さま方を見てから、本当言うたら、心の中で、一番詰まらんのは私だといった様なものを、まず、心の中に頂いて話さなければ、よう話は出来ませんもの。なるほど、皆さんより、詳しゅう知っておる事があるかも知れません。それとても、私が知ってるのじゃない。神様から頂くから、知っておるだけの事。私の心の中に、本当に、実意丁寧神信心というものが欠けたらです。もう私を、親先生とも、または、先生とも言うては下さらないでしょう。言われてるから、私が親先生じゃない。言われてるから、私が偉いのじゃない。自分は総代、ここの総代になっておるから、自分が偉いのじゃない。一番つまらん、一番めぐりの深いとじゃから、神様が、総代にしてござるとじゃという、そのくらいな自覚が要る、銘々が。本当に、誰を見、彼を見て、本当に、あの人よりも、私は、ここがつまらん。この人よりも、私は、ここがおかげにならん。私は、その時に、ちょっと感じた事があった。
この頃の御大祭の、中村さんが、もう本当に、十年年間、願いに願い、おすがりにおすがりしてきて、教会設立が出来た。本当に、親先生のお装束姿を、一遍、拝ませて貰うたら、もう何時死んだっちゃ良かち言うぐらいに、一生懸命思うた。それが、そこに、夢の実現が出来た。しかも、時には、自分は、婦人総代として、玉串をあげさせて貰えるような光栄に浴した。先生、私は、もう本当に、肩は銀杏の葉のような思いで、玉串を上げましたと、こう言われる。ほう、どうしてそげん、銀杏の葉のごとしてから、威張らん何じゃろうかと、私は思うた。どこにその、総代がたの値打ちがあるじゃろうか。どうして、そげん、銀杏の葉ごと、色々、いう人がある。椛目は違う、椛目は間違うとる。間違うとらん証拠に、見みなさい。こげな立派なお広前が出来たじゃないですか。しかも、私は、そこに総代として選ばれて、総代のおかげを頂いておる。その人が、どうして、ほんなら、肩銀杏の葉のようにして、玉串を上げるといった様な事が言えるだろうかと、私は感じた。けれども、もう、その喜びでいっぱい。表現のしようがないから、おそらく、もちろん、そう言われたに違いはございません。その喜びを、どげん、表現して良いやら分からん。どげん、私に、分かって貰おうと思って良いやら分からんから、そういうように表現されたのでございましょうけれども。そういうものが、心の何処にかあるから、そげな風に、ひょろひょろと、口から出てくるのである。さぁ、あくる日、参ってきてから、先生、肩が痛か、あんたが、肩ば、銀杏の葉のごと、こうしとるけん、肩が痛うなったったいと、私は思うたんです。
もう本当に、私はですね、昨日、それから一昨日、先一昨日、秋永先生、一昨日は、久留米の松蔭会、おかげ頂きました。その翌日は、雑餉で、筑水連合会があった。昨日は、櫛原の、いわゆる、久留米の教会の秋の御大祭。もう本当にあの、どこに参りましても、やっぱり、大祭で、いうなら名を売ったようなものですから。しかも、ここで、委員長として、挨拶をされましたから、まぁ委員長、委員長というて、本当に下にも置かれん。今までとは、もう手の平を返すようにその、扱われたと、こう言うのである。どんなに末席におっても、はぁ、早いとこ上行ってもう、それこそ、先生達が座りなさる様なところに、追い上げられるようにして参られる。そして、何か一つ、ああいう、御造営でも出来たんですから、委員長の仕事の苦心談があるでしょう。委員長としての信心があるでしょう。何か一つ、一言でも良いから話してくれと言われたけれども、はぁ、ここで、私が、軽々しゅう、ことしよったら、おかげを落とすと思うたから.いいえ、もうつまりません、もう出来ません。まぁとにかく、僭越ではございますけど、まぁとにかく、よろしゅうお願いしますというて、その、まぁ、いわば、謙虚にさせて頂いて。ところが、その後の、自分の味わいというか。そう言えば、そう言うほどです。何とはなしに、合楽の信心に深みを感じて下さるような気がしたというような事を申しております。今の合楽は、それで良いのです。
夕べ、北野の教励会から、久富先生、それから、久富勇さん、大和さん、二人、おかげを頂いて、ここにも、お礼に出て見えました。大和さん、言われるのに、先生、今日の北野の共励会は、どうも、どうも、いわば、有難い共励会じゃなかったと、こう言う訳なんである。私が、申しました。あなた方の様にね、例えば、お話の一つもさせて貰い、お話にでも行こうというのはですね。ためのお話じゃいかんのです。今日は北野の共励会、今日は、おかげ頂こうと思うたら、それこそ、本気で、朝から、教えに取り組ませて頂いて、それから生まれてくるところの体験。そこから生まれてくるところの、有難いという心をです、作っておかなければ出来る事じゃないですよと。例えて言うならば、私が、朝の御祈念をする。朝の御祈念にだけ、有難いという事を、得ろうと思うても、神様は与えなさらん。朝の御祈念を、有難く頂こうと思うたら、もう前の晩から準備が要るのだと。その、前の晩にです。本当に、今日もおかげ頂いて有難うございました。または、相すまんところがあるなら、相すまん事でございましたと、お詫びをして、許された気持。お礼を申し上げた、そのお礼を、聞き届けて下さったような思いがです。前の晩に、出来ておらずして、あくる日の朝の御祈念が、良い御祈念が出来る筈はないですよ。そら大和さん、今日の北野の共励会がどうじゃったというよりも、あなた方、いわば、指導の立場にでもあるあなた方の信心が、昨日一日ですね。いわゆる、今日一日が、本当じゃなかったという事が言えるのじゃなかろうか。いいえ、私は、本当にあの、今日一日の体験を話そうと思いました。思いましたけれども、何とはなしに、その雰囲気がです。そういうものを話させない雰囲気がございましたと言うような事を、昨日、言うております。折角、何時間という時間、しかも遠方から、しかも、それこそ、色んなテレビドラマ見とく方が、面白かろうにです、ただ、共励会に、みんなが集まってきて、そこに、なにも得るものが無いといった様な事ではです。次の共励会が思いやられる。次の共励会が待ち遠しい。信心の話を聞くのが有難い。あの人の話が、また聞かれるという様なです、雰囲気が、共励会に無いような事ではいけませんよ。これは、しっかり、おかげを頂かなきゃいけんというて、まぁ話した事でございますけれどもです。いうなら、例えば、そういうようにです、本当に、共励会の日だけが有難いのじゃない。はぁ、こう言う、有難さになる事が信心だ、おかげを頂くことだ、自分自身が助かる事だという事が分かったらです。それを、日々、続けさせて頂く。そこで、如何にも、指導に行っておるようであり、如何にも、お話に行っておるようであるけれども、実を言うたら、あなた自身が、共励会によって、育てられておるという事が分かるですねというて、まぁ話したことでした、夕べ、大和さんと。どこにもです、実意があふれておらなければ。しかも、その実意な心をもって、神信心しなければ。ね。
今日、私が申しました、大いなる神。いわゆる、天地金乃神。世界中の氏子に、みんなに、おかげを下さっておる神。世界中、宇宙をお廻り下さっておるところの神様。この神様ほど、実意丁寧な方は、もう絶対にあり得ないです。 その、実意丁寧な天地乃親神様を、小天地であるところの私達。その、私達の心の中にござるところの神様がです。いよいよ、実意丁寧に現れて来なさって、実意な心、実意な態度、実意な言葉に表れて来なさるようなおかげを頂いて。そういう心で、祈らせて貰う、すがらせて頂くから、天地との交流が始まるのである。天地乃親神様との働き合いが始まるのである。そこから、頂けるのが、信心させて頂く者の幸せであり、…(途中切れ)